Jacquard Wall Hanging – “5 Chöre” – 1928 / Cotton, wool, rayon and silk / 229 x 143 cm
グンタ・シュテルツル
第一次世界大戦が終わり混乱の中にも新たな希望が求められていた時代、1919年バウハウスはドイツ・チューリンゲンの地方都市ワイマールに国立造形学校として創設された。芸術と技術の統合、芸術家と職人が手仕事により共同で作り上げる未来の建築を目指した学校であり、1933年閉校までのたった14年間の教育と実践であったが、現代においてもモダンデザイン教育の規範となっており、また建築のほか、金属の灰皿やティーポット、照明器具等の実用品は、近代デザイン氏に残る優れたプロダクトデザインとしてよく知られているところである。
バウハウスへの入学条件に性別の制限はなかったが、実際には入学した女性は一握りの女性を除いて、ほとんど無条件に織物工房へ入らなければならなかった。それは初代校長である建築家ヴァルター・グロピウスの見積もりに反して、大戦で多くの兵士を失ったことによる男性の激減、自活しなければならない女性たち、教育権に制限を設けなかった新ワイマール憲法のおかげで女性の入学を拒めなかったことなどで、 向学心に燃える大勢の女性が入学してきたことに起因している。しかしこの織物工房は途切れることなく14年間継続できた唯一の工房であり、それまでになかった女性のテキスタイルデザイナーという職業を生み出すに至った。
工房の構成は形態マイスターと呼ばれる造形の指導者と、技術指導をする技術マイスター、そして職人と従弟(学生)による階級制であった。織物工房を率いたグンタ・シュテルツル(1897~1983)は、後にバウハウス初の女性マイスターとなったが、学生として入学した当初、織機はあっても誰もその使い方がわからず外部に使用方法や染色技術などを学びに出て、習得した技術や知識を持ち帰り教え合い、互いに協力して初めて授業ができると言う状況だった。シュテルツルを中心に共に学びながら技術を身に付け、さらに新しい時代の織物も創造していった。また男性指導者からの束縛もない織物工房では、女性たちは様々な実験に自由に取り組むことができた。1923年のバウハウス展示会では、絨毯や壁面織パネル、椅子張り地などが織物工房で制作された。バウハウス特有の直線による構成のデザインの他、表現性の高い強いデザインなど多様であった。
1925年、ワイマールからデッサウへの移転後、いよいよ産業のための工房活動へと転換していったが、当時形態マスターだった画家のゲオルグ・ムッへが導入した工業用織機であるジャカード織機の技術習得にも取り組み、産業のためのテキスタイルデザインを何人もの学生の連携作業でサンプル帳にして織物会社に提供した。1929年の当時のパンフレットはバウハウス織物の近代性を示している。 1930年にはベルリンのポリテックス社と提携し、ライセンス生産されたバウハウス織物コレクションとして宣伝、販売された。
シュテルツルは、産業のためのテキスタイルデザインの他、1928年に色彩豊かなジャカード織りの壁掛けも制作している。様々な素材と多色の緯糸を切り替えながら織られた美しい作品である。 産業化が進む中、紋紙を用いたジャカード織機の時代にも、労力をいとわず独自の織表現に応用する例として記憶に残る作品である。