織物組織図では経糸が黒、緯糸は白と言う2つの最小単位で構成されている。経糸を引き上げる部分に孔を開けた紋紙を用意たジャカード機の情報処理(経糸を上げるか、否か)は、コンピューターの0と1による情報処理との共通点があり、さらにデジタル写真のピクセル(画像の最小単位)にも共通点がある。デジタル画像の1ピクセルは、まさに織物の経糸1本と緯糸1本の交差する組織点に対応しており、織幅のピクセル数は経糸の本数に相当する。
コンピューター導入により、現代では織物製作のデザインや組織入れなど、全てコンピューター上ででき、複雑な表現にも対応できるようになった。スキャニングした写真や複雑な画像の組み合わせなど、写真というメディアを織物に取り込むことで、その可能性はさらに高まっている。
東日本の拠点、桐生の機屋に生まれた新井淳一(1932-2017)は、1950年から祖父の撚糸工場へ、3年後には家業の帯地生産にあたり、現場の職人の中に入って織の構造からデザインまで独力で習得した。1955年以降、天然繊維を中心とする素材制作のほか、プラスチック、フィルムに金属を真空蒸着する金銀糸織物を、60年代にはオパール加工などの新技術を研究し世界へ発信してきた。70年代には三宅一生、川久保玲など著名なファッションデザイナーたちに独創的な素材を提供している。最先端技術との融合で新しいものを創造する一方、世界の民族衣装を蒐集し、布という存在の素晴らしさを伝えるために、見るだけではなく手で触れて鑑賞できる「民族衣装と染織展」を1980年に桐生で開催した。
ジャカード織機発祥の地、リヨンでは1985年から紋紙を使わずコンピュータ制御のダイレクト・ジャカード機で稼働させたが、新井はそれに先んじて 1979年からコンピューターを導入した。西アフリカのケンテクロスをイメージソースとした織物のように、コンピューター・ジャカードを駆使して、世界の民族織物に触発されたテクスチャー感溢れる独創的な布を創造した。
常に先端の技術を模索しながら新しいテキスタイルを創造してきた新井の作品は、米国の主要な美術館や英国など多くの美術館に収蔵されている。日本を代表するテキスタイル・プランナーとして活躍した氏の業績が認められ、1987年英国王室芸術家協会名誉会員に推挙された。
また生家が米沢の織物製造業を営む機屋の3代目として育った秀雄(1962-)は、子どもの頃から機械に興味を持ち電子工学を学び、大手電機メーカーでパソコンの開発に携わる。さらに文化服装学園でファッションを学び、卒業後に生家の会社を引き継いだ。
織機はパソコンのプリンタに例えられるのではないかというアイディアから、コンピュータ制御システムを自ら開発、インクジェット、プリントと同じ原理でカラー写真出力に用いる色とインクの代わりに、糸色(マゼンタ、シアン、イエローの3原色と赤、青、緑、黒、白、)を使用している。 写真のまま再現するこの写真織を「PH0TOTEX」フォトテックスと命名し特許を得ている。
群衆の写真を4点のシャツにイメージがつながるようにレイアウトして織り上げ、 シャツに仕立て展示した作品"Shisen" がニューヨークのメトロポリタン美術館に所蔵された他、山口の写真織は数々の賞を受賞している。