ジャカード織機とコンピューター

 「Tome J-13」  阿久津光子

 

ジャカード織機は初期のプログラム化した機械の発展に重要な役割を果たした。ジャカールの発明したこの織機は、1810年代にはイギリスにも渡り工業地帯で使われるようになったが、この織機との出会いが「コンピューターの父」と呼ばれる英国ケンブリッジ大学の数学教授、チャールズ・バベッジ(1791~1871)に新しい発想を与えることになった。

 

1812年、バベッジは、当時は計算手と呼ばれる大勢の人間が流れ作業で計算して作った数表に誤りが多かったことから、数表計算の機械化を思いついたという。1820年、バベッジは最初の計算機(数表計算専用機) 「第一階段差機関Difference Engine」を設計した。 英国政府の支援を受けて 11年間を費やし計算機構の一部がつくられ、これが完璧に作動したものの資金不足やトラブルで頓挫してしまった。その後1834年、バベッジはパンチカードによるプログラミング機構をもつ「解析機関Analytical Engine)の設計に取り組み始めた。 バべッチがパンチカードの採用を思いついたのは、1801年にジャカールによって発明されたジャカード織機との出会いによるものであった。

 

厚紙に孔を開けることで織物の紋様の情報を記録した紋紙と呼ばれるカードを用い、これをジャカード装置が読み取り、織物の経糸の上げ下げを制御して紋様を織り出していく。 大きな紋様を織る場合はカードの枚数を増やし、異なる紋様を織りたいときは紋紙のセットを取り替えればよい。バベッジはこのジャカールのカード・システムを情報の入力に使うことを思いついたのだ。

 

1840年、バベッジはトリノで開催されるイタリア科学者会議へ解析機関の講義をするために招請された。 バベッジの計算機の基本概念を理解させるために、ジャガード織の紋紙を例にパンチカードの操作を通じて計算機の原理を説明した。

 

現代のコンピューターは2進法だが、 バベッジを解析機関の進法に10進法を採用。 構想段階では2進法も考えたが、歯車に記憶させることを考えると効率的ではなく見送ったという。バベッジの解析機関は(演算カード)と(変数カード)の2組のパンチカードに記載されたプログラミングが制御して計算を実行させる自動計算機であるが、 基本原理から構造まで現代のコンピューターに驚くほど似ているとその専門分野の解説にある。世界最初のプログラム内蔵式コンピューターが作られる100年も前以上も前にバベッジはプログラム制御方式の凡用計算機を構想していたのだった。

 

アメリカ人ハーマン・ホレリス(1860~1929)は後のIBMとなる会社を設立、ジャカードの紋紙を応用して人口集計用のパンチカード・システムをつくり、1890年のアメリカ合衆国の国勢調査に使用し大成功を収めた。IBMのパンチカード機械の技術を応用して製作されたハワード・エイケン(1900~1973)の計算機が1944年に完成、電気機械式自動計算機の第1号となる。

 

エイケンが物理学の博士号を得たハーバード大学に、バベッジの息子が復元した段差機関の一部が寄贈されており、エイケンはそこで段差機関と出会った。 バベッジを尊敬していたというエイケン、ジャカールとバベッジ、コンピューター開発に寄与した人々、そのルーツとなる空引機を生み出した中国の人々、またそれを改良してきた多くの先達は、紋紙のようにひとつの輪につ繋がっているように思える。

 

出典:阿久津光子